全日本吹奏楽コンクール30回出場記念「屋比久勲」特別演奏会

雨と灰の降りしきる中、「全日本吹奏楽コンクール30回出場記念・屋比久勲・特別演奏会」に鹿児島市民文化ホールに足を運びました。
屋比久先生が全国大会に初めて駒を進めた1972年は、今では毎年のように吹奏楽コンクールを聞きに行く私が、唯一レギュラーとして吹奏楽コンクールに出場した年でもありました。この年1972年の中学校の課題曲は、岩井直溥氏のシンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」。
コンクールで初めてポップ・テイストを持った楽曲が課題曲になった年です。
この年、鹿児島の中学校のAの部は、私が通っていた伊集院中、前年の代表校、第一鹿屋中、常連の宮之城中、阿久根中、国分中、そしてこの年にBの部からあがって来た、城西中の6校でした。今年の参加校が62校だったのを考えると、ものすごく少なかった印象ですね。
結果は、新興バンド、城西中が鹿児島県代表となり、会場がどよめいたのを覚えています。ちなみに、このころは「夏の祭典」が予選を兼ねていました。
そして、このときに私は城西中の吹奏楽オタク君と友人になり、当時の全国大会のレコードや西部大会(今の九州大会)の録音テープなどをいっぱい聞かせてもらいました。
この前年1971年に西部代表になったのは、北九州の響南中。その西部大会での演奏を聞くと、2位の沖縄の真和志中とは、歴然とした差がありました。先日、久々に聞き直してみましたが、やはりそうでした(笑)。
で、この年1972年、響南中が選んだ自由曲は、当時の勝負曲のひとつ「スラブ行進曲」。まあ前年の差を考えると、当然響南中が代表になり、今津中とのスラブ行進曲対決が楽しめるのだろうねと、友人と話ていたのですが、彼が沖縄から戻ってきて、響南中が負けたことを知らされます。
この1972年という年は、沖縄返還の年で、西部大会は、沖縄復帰記念として沖縄で開催されました。そんなことも影響してんじゃねえの、と、友人が録音して来たテープを聞く前までは思っていたのですが、ラジカセから流れてきた演奏は、71年とは裏腹に、1位と2位には歴然とした差がありました。特に課題曲。初めてのポップテイストに順応した真和志中と、順応に失敗した響南中の演奏には大人と子供ほどの違いがあったのです。
そしてもっとビックリしたのが、自由曲のトッカータとフーガ。それ以前に出雲一中のアクロバットトッカータとフーガは耳にしていましたが、それとは全くテイストの違う重厚なオルガンサウンドによるトッカータとフーガは、吹奏楽の概念を私の頭の中で、180度変換させるに充分なものだったのです。
そして、初めて東京の普門館で行われた全国大会で、真和志中は、当時の常勝校、今津中、豊島十中、そして前年に突然金賞校に躍り出た、秋田の 山王中とともに、見事金賞を受賞します。
もうひとつの常勝校、出雲一中は、指揮者が変わった過渡期にあり、この年は銀賞でした。
この年1972年の金賞4校が演奏した課題曲、シンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」は、それぞれが強烈な個性を持っていて、聞き比べるのが非常に面白かったわけですが、自由曲が、スラブ行進曲、シェヘラザード、幻想交響曲、そして真和志中のトッカータとフーガと、大曲のオンパレードだったのも、この時代の中学の部のレベルの高さを証明しています。
長くなって来ましたが、私は実はまだこのシンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」を、屋比久先生の生の指揮が聞いたことがありませんでした。いつか聞きたいいつか聞きたいと思っていた思いが、この日やっと叶ったのでした。
まあこんな思いで、この曲をピンポイントで聞きに来たという観客は、おそらく私だけだったかも知れません(笑)。
この日の演奏は、ソフィスティケートされた情報高校ならではのポップ・マーチでしたが、屋比久先生の指揮を見ながら、頭の中では、1972年の個性あふれる全国金賞4校の中でも最も清楚な響きを持っていた真和志中の「明日に向かって」が鳴り響いていました。
トッカータとフーガも同じです。真和志中のシンフォニックな木管の響きは、中学の部の吹奏楽の方向性を一気に変えたと、当時雑誌等でも絶賛されました。
この日の特別演奏会のプログラムではこの2曲だけですでにおなかいっぱいになりましたが、続いて、故兼田敏氏の「吹奏楽のためのパッサカリア」、「朝鮮民謡の主題による変奏曲」「今年の課題曲2番」「幻想交響曲」「アルプスの詩」と、吹奏楽コンクールヒットパレード的な豪華なラインナップになりました。
そしてアンコールは、かつての沖縄時代福岡時代の教え子も加わっての「エルザの大聖堂への行列」。
この曲を屋比久先生がコンクールで選曲されたことは無いと思いますが、なぜか、イコール的なイメージがありますね。
冒頭の木管の導入部、即席混成バンドながら、ピッタリと音楽のベクトルが一致していたのに驚き、終盤の金管が加わっての重厚な響きに圧倒され、シンバル隊を含む打楽器群の一糸乱れぬパフォーマンスに圧倒されました。
最後の強制万歳はやりすぎかなと思いましたが(笑)、自分自身の1972年と、屋比久先生の1972年が自分の中で一致した思い出として、この日の演奏を深く心に焼き付けておきたいと思います。
そしてまもなく訪れる全国大会での演奏も楽しみにしていたいと思います。
そう言えば、1972年当時の全国大会のアナウンスを持っているのですが、あの順番で演奏するなら、ご提供すれば良かったかな(笑)。当時と現在のアナウンスの仕方の違いもわかって、面白かったかも。